「王妃マルゴ」を読むための、ユグノー戦争に揺れる16世紀フランス王室基礎知識

フランスの真珠


「王妃マルゴ」(萩尾望都)を読んだわけです。16世紀のヴァロワ朝からブルボン朝へ移りゆく宗教戦争に明け暮れた激動のフランスを、男をたぶらかす妖艶な淫婦……とされる前のマルゴ王女の視点から描く壮大な歴史絵巻なんですが、ルイ16世の時代に比べるとあまり接点がない時代の話で世界史の授業ははるか記憶の底、つまり知識ほぼゼロから読んでるので何がなんだかさっぱりわからない。ちょっと予習必要かな、ということで1巻読んだ後に少し勉強しました。先週は徳川忠長とアンリ4世を同時並行に調べてたので途中錯乱しましたが、そういえば時代的には同時期ですね。
知識なくて読めない話でもないですが、あったほうが楽しかろうということで、作品の理解を助ける予備知識をざっくり書いたものが以下記事となります。もともと詳しい方の助けになるほどしっかりしたものではないので、ご承知ください。
ついでに(マンガじゃないけど)デュマ版の参考になるようなものにしようと思ってますが、そのデュマ版は萩尾版でいうと4巻以降ぐらいの話が舞台なので、巻ごとに区切ってそこまでの登場人物や出来事を解説するようなものにしようかな、と思ってます。
複数の文献とWEBページを参照して書いてますが、内容に誤りがある場合責は管理人にあります。ご指摘、ご容赦の程願えれば幸いです。

1巻の内容について

以下内容に関するネタバレを含みます。

ヴァロワ家とブルボン家

かつてその高潔な人柄から「聖王」と謳われたルイ9世(1214~1270)の子供たちのうち、国王となったフィリップ3世の子孫がヴァロワ家、その弟にしてブルボネー地方を所領するブルボン家に嫁ぎ、ブルボン公ルイ1世の父となったロベール・ド・クレルモンの家系がブルボン家。つまりヴァロワ家とブルボン家は元々同じ家系です。
「王妃マルゴ」開始時点での王朝はヴァロワ王朝で、その前はカペー朝。これは1328年に直系男子が断絶しました。ヴァロワ家もブルボン家もカペー家の男系支流であり、広く解釈すればその後のオルレアン朝に到るまで、フランス王室は一貫してカペー家の人間に占められていたとも言えます(現代のヨーロッパ王室にもカペー家の血を継ぐ人間は多い)。

16世紀当時のフランス情勢

フランス王国の領土は現在のフランスと大きく変わらず、地図上で左下のスペイン王国も今のスペインと領土的にさほど変わりません。地図の右には現在のドイツにあたる神聖ローマ帝国で、スペインとローマ帝国はどちらもハプスブルグ家の支配下にありました。北にイングランド王国、オランダとベルギーの位置にネーデルラント連邦。右下のイタリアは、教皇領やナポリ王国、ヴェネツィアなどに分裂状態でした。
14世紀のペスト大流行、フランス王位継承問題に端を発したイングランドとの百年戦争、イタリア諸国を巡るイタリア戦争を経て、ある程度外交的に落ち着いた時期です。大元帥モンモランシーのとりなしでスペイン王フェリペ2世にアンリ2世の娘エリザベート、サヴォイア(現在のモナコ周辺にあった小国)公エマヌエーレに王妹マルグリット(マルゴとは別人)が嫁ぎ、カトー=カンブレジ条約が締結されてイタリア戦争が終結したのが1559年(=婚姻関係を結んで戦争を手打ちにした)。アンリ2世の騎馬槍試合もまた、この結婚祝いの余興としてのものでした。
ヴァロワ朝フランスとハプスブルグ家スペイン/神聖ローマ帝国はともにカトリックの大国であり、この両者が争い疲弊する時期はカトリックの腐敗を叫ぶプロテスタント拡大の時期と一致しています。

アンリ2世

マルゴの父親にしてヴァロワ朝第10代フランス王(在位1547年~1559年)。作中すぐに退場しますが苛烈な人生を生きた人で、7歳にして敵国スペインに人質として売られ、しかもそのまま父親に半ば見捨てられた過去を持ちます。実母は既に亡く、この孤独な王子に母親代わりのせめてもの愛情を示したディアーヌ・ドゥ・ポワティエは、後に王となるこの少年から生涯の愛情をささげられることになります(なのでかなり年の差があります)。晩年はプロテスタント弾圧の意思を強く示していました。

フランソワ2世

ヴァロワ朝第11代フランス王(在位1559年~1560年)。メアリ・スチュアートと結婚したのは14歳(当時のフランスではこの年齢で成人と見做された)、父が死にフランス国王として即位したのが15歳の時。そしてその翌年、16歳で崩御しました。先天性の病により、常に耳から膿が垂れていたそうです。ちなみにフランソワ1世はアンリ2世の父親。
政治的能力の低い(かつ病弱な)彼が王座につく=メアリが王妃となる=その伯父であるギーズ公が政治的主導権を握ることになったので、ある意味カトリックとプロテスタントの確執のひきがねを引いた人物でもあります。プロテスタントから見ると、自分たちを迫害する王が相次いで事故死・病死したわけで、これを何かの啓示と受け取る向きも多かったと思われます。

ギーズ家

かつてフランスと神聖ローマ帝国の中間に存在した、ロレーヌ公国シャトノワ=ロレーヌ家の分家で、要するに貴族です(ロレーヌ公国はナバラ王国同様合併され、現在はフランスのロレーヌ地方)。16世紀フランスの過激派カトリック代表。メアリ・ステュワートが王妃となったことで、その叔父であるギーズ公フランソワと枢機卿シャルルの兄弟は王宮内で発言力を一気に増し、フランソワ2世に圧力をかけてプロテスタント排斥運動を推し進めました。これがあまりに苛烈だったので、国の分裂を恐れたカトリーヌ・ド・メディシスは新旧両派の融和政策に勤めることになります。

メアリ・スチュアート

フランス風に言えばマリー・スチュアール。カトリーヌとの不仲のせいもあり、フランソワ2世の死後故国に帰った彼女ですが、その美貌のために波乱万丈の人生を生きることになります。
彼女が女王となったスコットランドはイギリスの上のほう、イングランドは下のほう(イギリスという国自体が当時はまだない)。スコットランドはバリバリのカトリックです。カトリックでは離婚を認めていませんでしたが、イングランドの国王ヘンリー8世は王妃キャサリンを離縁してアン・ブーリンと結婚したため、メアリはアンの娘であるイングランド女王エリザベスを「庶子」とみなしています。

アンボワーズ城

作中でも説明がありますが、1巻49ページで宮廷が守りに長けたアンボワーズ城に遷移したのは、ギーズ公がフランソワ2世略取の計画を察知したためです。ギーズ公が権力を握る→プロテスタントの迫害がはじまるのはほぼ間違いないので、プロテスタントは早めに王様を誘拐してそれを阻止しました。つまり手段はともかく、この反乱の主目的はプロテスタントの「自衛」です。
ギーズ公としては弾圧する口実を得たようなもので自ら軍を率い、首謀者ラ・ノルーディもこれに応戦。結局、大量のプロテスタントが処刑される結果となりました。壁に吊るされた同朋の無惨な姿にプロテスタントは激怒、各地でカトリックの聖像が破壊されるなど対立はさらに深刻化していきます。

シャルル9世

ヴァロワ朝第12代フランス王(在位1561年~)。フランソワ2世よりさらに若く10歳にして王となったため、誰か摂政をつける必要がありました。摂政は王族であることがならわしのため、ナバラ王であるアントワーヌ・ドゥ・ブルボンが適任かと思われましたが、意外にもこれまで控えめだったカトリーヌ・ドゥ・メディシスが政治手腕を発揮し、実権を握ります。

カトリーヌ・ドゥ・メディシス

メディシスとはイタリアのメディチ家のこと。王族の出ではないため、王宮では陰口を囁かれることもあったようです。アンリ2世の妻として10人の子供を産んでますが、最初の子であるフランソワ2世が生まれるまでは難産だったそうです。夫の死後は黒い喪服で身を包み、「黒衣の王妃」などと呼ばれました。
フィレンツェ出身だけあってか芸術的な素養を持ち、フランスの宮廷にテーブルマナーを定着させたのも彼女だと言います。実はかなり多才な女性です。
我が子であるシャルル9世の摂政となった彼女はカトリックとプロテスタントを融和すべく、両方の神学者を招いて会談の場をもうけたり(ポワシー会談。喧嘩別れに終わった)、1562年にはプロテスタントの信仰の自由を認める王令を出したりとフランス内での両信仰の共存を目指します。しかしギーズ公はこれに反発、認められた礼拝を行うプロテスタントを虐殺してしまいます(1巻132ページ)。この事件は「ヴァシーの虐殺」と呼ばれ、本格的な宗教戦争の幕開けとなります。

アントワーヌ・ドゥ・ブルボン

ヴァンドームは現在のロワール=エ=シェール県(フランス中央部の少し左上)の一部。雑に例えれば山梨の知事が沖縄の王様もやってるような感じです。どうも史実では彼はフランソワ2世が亡くなった時点でまだプロテスタントだったようですが、なんにせよ王国総代官となった時点でカトリックに改宗し、ただでさえ遠距離で冷え切った奥さんとの関係がさらに悪化。結局彼は自分が捨てたプロテスタントの銃弾に倒れることとなりました。

サリカ法

女性の土地相続を禁止した、フランス及びヨーロッパの慣習を明文化した法典のことです。王位継承においては直系の男児が年の順に王位に就き、それが途絶えれば傍系の出番となります。王女が生まれた時点で相続権が否定されるため、その王女の家系が後に男児をもうけても王位継承権が認められませんでした。例えば作中のギーズ公アンリの祖母はフランス王ルイ12世の次女ルネですが、男系ではないのでギーズ公アンリには王位継承権がありません。

フランス巡幸

十三歳となったシャルル9世の成人式を待ち、この若い国王を国民に披露すること(ならびに分裂しかけている国民を、忠誠心でまとめ直すこと)を目的とした大旅行はツール・ド・フランスと呼ばれました。期間にして約2年、もちろん自転車ではなく、徒歩と馬と船の旅です。旅の間も治世は続いているので、実質的には近衛兵から家臣から持ち運び、何回も引越しを繰り返したというほうが正確かもしれません。旅先での情報の収集や聴取、各地の要人との交際も主な目的とされ、その後の政策に反映されました。
占星術に傾倒していたカトリーヌ・ドゥ・メディシスがノストラダムスに会いに行ったというのは史実のようです。また、ナバラ王子アンリを見たノストラダムスがフランス国王となる運命を言い当てたという記録もありますが、さすがに治世の年数まで言い当てたりはしなかったようです。

ナバラ王国

ナヴァル、ナヴァールとも表記。スペインの北のほう(あるいはフランスの左下)にあり、位置的にフランスとゆかりが深かった小国(16世紀時点で)。後にフランスに合併され、現在ではスペインのナバラ州に名残を残します。

ユグノー(カルヴァン派プロテスタント)

プロテスタント(抗議するもの、の意)の始祖は神聖ローマ帝国(現ドイツ)のマルティン・ルター。初期は友好的だったカトリックとプロテスタント及び人文主義者の関係は1530年代頃から悪化、プロテスタントは悪名高い免罪符(天国行きのチケットが金で買える)に代表されるカトリックの腐敗と複雑化に異を唱えました。ラテン語のみだった聖書がフランス語やドイツ語に翻訳されたのもこの頃です(ただし当時のフランスの識字率はとても低く、主として口語で伝えられた)。
プロテスタントは「聖書に書かれてること」を原則に教義をシンプルにし、伝統を重視するカトリックに対し「各派で色々ディティールが違っていい」という柔軟さを打ち出しました。その中でもルター派と少し違う教義を持つのがジャン・カルヴァンを始祖とするカルヴァン派プロテスタントが1540年頃からフランスで大流行、彼らは一般にユグノーと呼ばれました。教義として「救済予定説」というのを持ち、即ち人は生まれた時点で天国へ行くか地獄へ行くかが決まっているというもので、自分は天国へ行くと信じ切った人々を迫害した結果が、本作で描かれるフランスを揺るがす宗教戦争です。

救済予定説

余談になりますが、当時のヨーロッパでは運命論に関する議論がさかんに行われていたと言います。もしすべての運命が神によって決定されているのであれば、人が自分で決定したと思っていることも運命によって予め決められていたのではないか、すると人間には感情や自由意志があると言えるのか……というようなもので、これらは人間機械論と呼ばれます。もしノストラダムスの予言が本物であるならば、人間機械論は俄然説得力を持つことになります。現代から見るといささか極端に見える救済予定説は、このあたりの流行の影響を受けたものと考えられます。

コンデ公

コンデ親王、コンデ大公とも。ヴァンドーム公アントワーヌの弟にして初代コンデ公ということで、兄がいなければ彼がヴァンドーム公でした。ナバラ王子アンリから見ると父の弟、叔父にあたります。
かつては神聖ローマ帝国との戦争で戦果をあげた歴戦の将軍にして王族の一員。しかし内戦にあっては、プロテスタントの旗手となっていきます。

ヌヴェール公

作中では「ヌヴェール公」としか呼ばれませんが、ちゃんとフランソワ1世という名前があります。彼もこう見えて歴戦の勇士です。ヌヴェールはフランス中央部、現在のニエーヴル県の県庁所在地。
カトリーヌ・ドゥ・メディシス同様「プロテスタントに好意的なカトリック」で、作中の描写の通りプロテスタントの妻を愛し、数多くのプロテスタントの友人を持っていました。ジャコモ・マイアベーアのオペラ「ユグノー教徒」ではメインの役どころを務めています。
臨終の場面に登場する彼女の娘カトリーヌは、のちにフランスの政治に大きな影響を与える存在へと成長します。

2巻の内容について

コリニー

イタリア戦争の英雄、コンデ公と似たような立ち位置のプロテスタント。彼が国王シャルル9世の親代わりのような存在となったのは史実。

ヌムール公

作中の「ヌムール公」は本名ジャック・ドゥ・サヴォワ=ヌムール。彼とギーズ公フランソワの未亡人アンナ・デステが結婚するのはお互い35歳前後、結婚生活はうまくいったようで、その後シャルル、アンリ、マルグリット……と定番の名前がついた子供に恵まれます。つまりアンナ・デステの子供にはふたりのアンリがいることになります(ちなみにシャルルもふたりいる)。

※追記予定

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